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大阪地方裁判所 昭和28年(行)23号 判決 1954年12月27日

原告 株式会社淀川製鋼所

被告 大阪地方労働委員会

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告委員会が、申立人小林治雄外三名、被申立人株式会社淀川製鋼所間の大阪府地方労働委員会昭和二七年不第二六号(不)当労働行為救済命令申立事件につき、昭和二八年四月一日発した命令中、申立人小林治雄土井政一に関する部分を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決をもとめ、その請求の原因として、つぎの通り述べた。

『原告会社は、昭和一〇年一月三〇日設立され、薄鋼鈑等の製造販売を目的とし、発行済株式千万株資本総額五億円で、肩書地に従業員千六百名前後の本社工場を有するほか、泉大津・歌島橋・呉の各地に工場を有する薄鈑業界屈指の製造業者である。

原告会社の従業員は淀川製鋼所労働組合を組織し、その役員として、組合長一名・副組合長二名・書記長一名・常任委員九名が組合員の単記無記名投票で選任され、ほかに職場委員三八名が各職場の定める方法で選出されていた。

訴外小林治雄・土井政一・上岡正男・山田友久は、原告会社の従業員で、右淀川製鋼所労働組合(組合)の組合員であつた。

ところで、昭和二七年四月頃、わが国薄鈑業界は甚だしい不況に追いこまれ、生産は需要を上廻ること二倍、価格は前年高値の半額に低落し、製造業者はトン当一万円の赤字を出す始末となつたため、操業短縮が必至の結果として一般化する傾向にあつた。原告会社はこの情勢に対処して、資材の節約・機械設備の管理強化・補助部門から生産部門への工員の配置転換・週二、三回の命休制等を実施し懸命の努力を試みたが、情勢は日に悪化し、経営は危機に直面するおそれがあつたので、ついに最後の手段として最低三三〇名の人員整理を決意し、これを実施するのやむなきにいたつた。

そこで、原告会社は昭和二七年四月七日整理基準をつぎの通り決定し、解雇者の選考に着手した。

(一)  長期欠勤者

(二)  労働能率低位の者

(三)  懲戒処分を受けた者

(四)  定員制の実施による課別均衡の是正による配置転換不可能の者

(五)  希望退職者

(六)  以上五項目に該当しなくとも、総合的に低成績者で常に業務上の指示に協力せず、職場能率を阻害する者および責任度と誠意を欠く者

そして、右整理基準に従つて解雇者を決定し、(1)同年五月一五日一五一名(土井政一・上岡正男・山田友久を含む)、(2)同年六月一五日九〇名、(3)同年七月四日八九名(小林治雄を含む)、合計三三〇名の従業員を解雇した。

右のうち、小林治雄は整理基準の(二)(三)(四)(六)に該当し、土井政一はその(四)に該当したため右解雇の対象となつたものである。

これに対し、小林治雄は同年七月九日、土井政一は上岡正男・山田友久とともに同月二二日、それぞれ原告を被申立人として被告委員会に対し、原告の同人等に対する解雇を労働組合法第七条第一号に規定する不当労働行為にあたると主張して、原告に同人等を原職またはこれと同等の職場に復帰させ、解雇の日からその復帰の日まで得べかりし賃金に相当する金額を支払うことを命ずるよう救済の申立をし、被告はこれを大阪府地方労働委員会昭和二七年(不)第二六号不当労働行為救済命令申立事件として受理し、昭和二八年四月一日これにつき、原告に対し、

一、小林治雄、土井政一を原職またはこれと同等の職場に復帰せしめ、解雇の日より復帰の日まで同人等が得べかりし賃金相当額を支払うこと。

二、上岡正男、山田友久の申立を棄却する。

との命令を発した。

その命令書に「委員会の判断」として記載されたところは、別紙の通りであるが、これによれば、被告委員会は、命令書の「事実の認定」の部分で小林治雄および土井政一が昭和二五年一〇月の赤色追放反対闘争等を通じ活溌な労働組合活動を行つたことを認定したのにつづいて、小林が整理基準(二)(三)(四)(六)に該当せず、土井がその(四)に該当しないことを認定し、反証なきかぎり同人等に対する解雇は同人等が労働組合の役員ないし組合員として正当な組合活動を行つたことを理由としてなされたものとみとめるほかはない、というのである。

しかし、まず、解雇が労働組合の組合員として正当な組合活動を行つたことを理由になされたと断定するためには(一)その労働者が正当な組合活動を行つたこと(二)使用者がその組合活動を知つていたこと(三)使用者が差別的意思をもつて、右組合活動を決定的原因として解雇したこと、を要する。

そして原告がまず、右命令書に記載された判断に承服できない点は

(一)  原告が整理基準に該当する事実として主張立証した事実に判断を与えていないこと

(二)  「反証なきかぎり」というが、反証に対する判断を与えていないこと

(三)  整理基準に該当しないことは、直ちに不当労働行為に該当するわけではなく、その間原告に差別的意思があつたか否かの判断を与えていないこと

(四)  小林、土井はいずれも整理基準に該当するものであり、仮に同人等に活溌な組合活動があり、原告がこれを好ましくないと思つていたとしても、解雇の決定的原因が整理基準に該当すると考えたことにあるとすれば、不当労働行為にならないわけであるが、被告は何が解雇の決定的原因であつたかの判断を与えていないこと

(五)  さらに、土井政一について、命令の主文で、同人を原職またはこれと同等の職場に復帰させ、復帰までの賃金相当額を支払うことを命じているが、原告は同人の属していた伸鉄工場を昭和二七年六月一五日廃止し、同部門の従業員は全員解雇したのであつて同人はおそかれ早かれ右六月一五日には解雇をまぬがれなかつたものであり、同日以後は同人の復帰すべき原職はないので、被告の命令は不能を命じ、また、同人に他の一般従業員以上の保護を与えるもので、不当労働行為に対する救済の範囲を逸脱した命令といわねばならないが、被告はこの点について何等の判断を与えていないこと

の諸点にあるが、以下、これ等に関し、被告の判断の誤つているところを詳述する。

一、淀川製鋼所労働組合との関係

小林、土井等は解雇当時の組合を御用組合とよぶ。他にもそういう声のあることは原告も否定しない。同組合はもと関西において最も尖鋭な労働組合であつたが、原告会社が昭和二五年一〇月いわゆるレツドパージを行い、企業破壊的な組合活動をする組合長以下組合役員等五三名を解雇した後は、健全な労働組合として発展してきたものである。しかし、その後も、組合の組織、活動はすべて組合員全員の自由な意思によつて形成されてきたもので、右レツドパージ前、企業破壊的な組合活動がなされていた状態と比較し、また、組合員の多数決によつて形成されたその後の組織、行動に不満な少数者組合員の立場から、これを御用組合とよぶのは当らない。かえつて、右レツドパージ前は、組合は一回のストライキも行わなかつたが、その後、昭和二六年八月飯尾製鈑課長配置転換反対、昭和二七年七月夏季一時金要求と、二回にわたつて闘争宣言を発して原告会社と抗争しているし、さらに、昭和二八年一一月三〇日からは五〇日におよぶ大ストライキを敢行するにいたつていることからみても、御用組合でないことは明らかである。

そして、原告は組合に弾圧を加えたようなことはない。上記レツドパージ後、組合が健全な発展をとげてきているので、組合活動弾圧のため、活溌な組合活動をする者を整理する必要など少しもなかつたし、従つてその意思もなかつた。このことは全従業員の二割強を整理した本件人員整理において、組合委員として主要な組合活動に従事していた者で解雇されたのはわずか九名にすぎない点によつてもうかがわれるし、ことに、右整理の後かえつて組合活動が活溌化し、ついに上記大ストライキにまでおよんだことによつても、十分裏付けることができる。右レツドパージの際は、連合軍最高司令官の指令の趣旨に副い企業防衛の立場から、活溌に組合活動をした者を解雇の対象としたが、今次の人員整理は、企業維持の立場から行つたもので、組合活動は問題にしなかつたし、その必要もなかつたわけである。まして、小林や土井等のいうように、組合が御用組合であつたとすれば、その末端の組合員の活動のごときは、なおさら原告会社にとつて問題ではなかつたことになるわけである。

二、小林治雄関係

(一) 組合活動

被告は命令書中「事実の認定」の部で、小林治雄が(1)昭和二四年八月組合の職場委員に選出され、昭和二五年一〇月八日まで委員として積極的に組合活動を行い、(2)昭和二五年四月の賃下反対闘争、(3)昭和二五年一〇月の赤色追放反対闘争、(4)昭和二六年八月の飯尾忠夫製鈑課長配置転換反対闘争・夏季一時金闘争に、職場委員として活躍し、(5)昭和二七年五月五百円の賃下げ、および本件第一次人員整理の一五一名の解雇発表に際し、委員曽我藤道が、困難な問題でその任に堪えないと辞任したとき、職場会議で委員改選の結果委員に選出され、その後強力に反対闘争を行つた、と認定している。しかし右は事実に反する。職場委員は、組合の闘争体形においては闘争委員となり、その下にさらに職場闘争委員がおかれるものであるが、小林は、昭和二四年八月職場委員となり、昭和二五年一月二八日の改選で退任するまでその地位にあつた。(昭和二五年一〇月八日まで職場委員であつたのではない)小林が職場委員に選出されたのは、輪番制でなつただけのことで、同人に指導力があつたためではなく、職場委員である間も積極的な組合活動はしていない。昭和二七年四月二四日整備係の職場委員には竹谷留蔵が選任されており、その後に同人がやめて曽我藤道が選ばれ、さらに同人に代つて小林が選任されたということは原告は知らない。以上のほか、小林は職場委員も職場闘争委員もしていない。従つて被告の挙げる各種闘争の際も、小林は職場委員でもなく、職場闘争委員でもなかつたし、また活躍したということもなかつた。仮に、小林が活躍したことがあつたとしても原告はまつたく知らなかつた。

右のごとく、小林は注目に値するほど組合の役員もしていないし、積極的な組合活動もしていない。仮に、していたとしても原告のまつたく知らなかつたところであるから、いずれにしても、同人の組合における地位なり、活動が、同人に対する解雇の原因となり得なかつたことは明らかである。

(二) 整理基準(二)および(六)該当の点

小林は本社工場製鈑課整備係の機械整備の組に属しており、機械整備には小林のほか、飯島・鴛田・船之川・上田・小西・星出・奥谷・新徳と合計九名の工員が配置されていたが、原告は右九名中四名を整理解雇することにした。整備係は製鈑課における補助部門であり、生産縮少のため従来動かしていた圧延機八台を三台に減ずることにした結果、機械整備について四名を剰員として整理することが必要となつたもので、五名を残し四名を整理すること自体は人員の合理的な配置からいつて当然の措置である。そして、右九名のうち、飯島は優秀な伍長、鴛田、船之川は極めて仕事に熱心な優秀工員であり、上田もまた優秀な工員で、いずれも他の五名と格段の差があるので、この四名が残ることは問題がない。あとの五名のうち、新徳は特別な事故をおこしていて成績として最下位に甘んずるほかなかつたので、結局、小西・星出・奥谷と小林の四名のうち、一名を残すことになるが、その四名のうちでは、小西が優秀であつたので、原告は小西を残し、星出・奥谷・新徳および小林の四名を解雇した。選考は右の通り、もつぱら勤務成績を標準にして行つたもので他意はなく、どう考えても、小林は右残存五名の者に比して、工員としての成績は劣る。その具体的な事実を例示すれば左記の通りであつて、原告が小林を解雇したのは当然といわねばならない。

(1)  昭和二七年二月、監督者の鎗水主任が、A焼鈍炉横のスピンドル等の片付けを命じたところ、仕事にかからず他の四名の者とピツトの中で車座になつて怠業した。

(2)  昭和二七年五月初、監督者の長谷部万吉が、バリケン台の組立清掃を命じたところ、チルチングテーブルの修理場で、他の四名の者と車座になつて怠業した。

(3)  昭和二七年五月一二日午後二時頃、浜田専務、岩佐総務課長代理が、製鈑工場巡視の際、八号機裏において他の四名の者と車座になり、煙草をのみながら休んでいたので、岩佐課長代理が直ちに作業を命じた後、再度巡視したところ、なお作業についていなかつたので、再び注意を与えると、かえつて岩佐課長代理に食つてかかつた。そこで、岩佐課長代理はその翌日、小林を総務課に呼出し、訓戒しようとしたところ逆に食つてかかつたので、始末書の提出を求めたが、これを拒否した。

(4)  昭和二七年五月、監督者の長谷部万吉が午前八時にバリケン台組立を命じたところ、午後三時になつても仕事にとりかからなかつた。

(5)  昭和二七年五月、右長谷部万吉が、ロールハンドル修理のため小林と鴛田新太郎に公休日の出勤を命じたところ、小林は仕事をしなかつた。

(6)  以上のほか、小林には、若く真面目な工員をそそのかして、勤労意慾をそぐ言動があり、昭和二六年九月鎗水主任は、久米製鈑課長の許可を得て、小林の部署を製鈑課の倉庫係に変更した。

なお、以上の事実については、原告が主張したにもかかわらず、被告委員会は、命令書において、判断を示していない、判断を遺脱した違法があるといわねばならない。

被告委員会は、逆に、小林が、倉庫係当時(1)計算の早見表あるいは一覧表を立案して能率をあげ(2)定時より三〇分ないし一時間早く出勤して、先番者の申送りを受け、あるいは帳簿計算を早くするなど、積極的に真面目に仕事に従事したこと、(3)物品の監視出入を委され、相当の信頼性と責任度とを要する倉庫係に配置されたことから考えて、右整理基準に当るものとはみとめられないというが、これは被告の誤認である。

(1)  小林が、早見表とか一覧表を立案したことはない。とくに有用有効なものであつたら、監督者が知らないでいるはずはないが、誰も知つている者がない。物品出納簿程度のものであつたら、誰でもできることで、とくに小林の優秀さを示すものではない。

(2)  三〇分ないし一時間早く出勤したという点は不明であるが、仮に少し早く出勤したことがあつても、そんなことは普通のことで、とくに、小林が目だつたということはない。

(3)  小林の配置された倉庫係は、倉庫課ではなく、単に製鈑課の倉庫係で物品置場にすぎない。とくに信頼性と責任度とを必要とする部署(倉庫課)ではない。かえつて、小林を倉庫係に廻したのは、前述の事情により、単独の仕事にうつしただけのことで、決して小林が優秀だつたためではない。

(三) 整理基準(三)に該当の点

小林が前記昭和二七年五月一二日浜田専務、岩佐課長代理巡視の際とつた態度に対し、岩佐課長代理は、懲戒処分として小林の解雇を決意したが、組合幹部のとりなしで、解雇をやめ、懲戒処分として最も軽い譴責に付することにし、直ちに立案して関係者の決裁を仰ぎ、総務課人事係の有山に、労働者名簿に譴責の事実および月日を朱書させた。しかし、就業規則に、譴責処分は公表しないとあるのを誤解して、本人の小林に告知しなかつた。

被告は右の点について、小林は組合幹部のとりなしで譴責処分に至らずにすんだものというべきであるとし、右の譴責は小林に対する告知を欠き法律的には結局完成しなかつたので小林は整理基準(三)の「懲戒処分を受けた者」に該当しないという。

なるほど、小林に対し譴責処分の告知がなかつたので、小林は懲戒処分を受けた者に当らないというのは正しいしかし原告は、小林に、右懲戒処分に付せられる理由のあつたこと前記の通りであつたし、また、譴責処分に付したつもりでいたので、解雇に当つて、小林を整理基準(三)にも該当するものとみとめただけで、他意があつたわけではない。すなわち、小林は客観的には懲戒処分を受けた者に該当しないとしても、原告が同人を懲戒処分を受けた者と考えていたという主観的な事実は動かない。そして、小林の解雇が不当労働行為となるかどうかについてはいうまでもなく、右の主観的な事実こそが重要である。

(四) 整理基準(四)に該当の点

被告は、人員整理においては、全従業員中経営効率に寄与する程度の低い者から排除してゆくのが常識上当然であり、配置転換の能否は、全従業員について右の点で順位を定めた上全体の人員配置の必要上生ずる問題であるはずであるのに、かかる操作を行わず、出勤率も勤務成績も優秀とみとめられる小林、出勤率一〇〇パーセントの熟練工土井を、直ちに配置転換不可能とする原告の主張は信用できないという。

しかし、原告は、危機切抜の最後の手段として人員整理を断行したもので、それまで、まず定員制の実施によつて課別均衡の是正をはかり、ついで、各課長から、整理基準該当者を内申させ、これに基いて被整理者を決定したもので、その決定に際しては、総務課において、各課長と協議し、配置転換の点も十分考慮して、全般の立場を考えた。しかし、原告会社のごとく、従業員一六〇〇名におよぶ会社では、各課長の判断もある程度主観的に流れるし技術も相対的でありまた、配置転換可能の部署と経営効率的に不可能の部署とがあつて、全従業員について一率に順位をつけることはいうべくして行い得るところではない。現に原告会社は、右人員整理の前、昭和二六年一二月二〇日四〇名、昭和二七年一月一二日三七名について、補助部門から生産部門へ配置転換を試みたが、その結果は悪く、第一次の四〇名中六名、第二次の三七名中九名は、昭和二七年五月までに任意退職し、右については、課内に不平不満もあつたのである。

工員の配置転換は技術・給料・年齢等を無視してはできない。ある部門の熟練工も、他の部門では未熟者であるし生産部門は若さと強健さとを必要とし、年齢はまた給料とも関係し経営効率的にいつて、概して、年齢二五才未満で身体強健な者の配置転換は容易であるが、少々技術が優秀でも、年齢高く高給の者は、配置転換が不能である。人員整理の目的は経費の節減にあるので、その関係から高給者の配置転換はいきおい不能となる。

そして、本件人員整理当時、原告会社の工場従業員の平均年齢は三一才、平均給料(昭和二七年三月現在)は一月一四、六〇六円であつた。これに対し、小林は当時年齢四三才、給料は一月一五、八六四円(整備係一二人中二位)であつた。前記の通り、勤務成績もよくなかつた同人を、配置転換不能とみとめたのは、やむを得ないところといわねばならない。

なお、被告は、整理基準(四)に関し、小林等とともに解雇された圧延課食堂勤務の甘田梅太郎他二名に対し、昭和二七年七月四日製鈑課長代理上田知作が、日雇で作業を続行して貰いたいと申入れて拒否されたこと、あるいは、土井の解雇後同年五月一七日伸鉄課の人員不足のため日雇を募集し、またネジ切の者が一部休日に出勤して伸鉄の方へ応援に行つたことなどが認められるとして本件人員整理は、特定部門の縮少または過剰人員の排除を目的とするものではなく、むしろ常傭工を日傭に切換えることによつて人件費の削減をはかるのを第一目的とした整理と考えざるを得ないという。しかし、上田課長代理が、甘田等に、就職がきまるまで日雇で来ないかといつたことはあるが、それは同人等の老齢病弱に同情して就職までのつなぎを考慮してやつたまでのことであるし、伸鉄課に日雇を募集したことはなく、ネジ切の者が一部休日に出勤して伸鉄部門の応援をしたことはあるが、それは、圧延機の稼動減少で、伸鉄工場の材料が不足し、これに対する応急措置として、先に買収してあつた大阪造兵廠跡の鉄骨材を至急解体して右の材料に当てる必要を生じたという特殊な事情による一時的な措置であつて、けつして、常用工を日雇に切換える意図があつたわけではない。この点も被告の誤解である。

三、土井政一関係

(一) 組合活動

被告は、土井政一が(1)昭和二五年一〇月の赤色追放反対闘争(2)昭和二六年飯尾忠夫製鈑課長配置転換反対闘争・夏季一時金闘争に、職場闘争委員として活躍、(3)昭和二七年四月職場委員に選出され、(4)結婚資金・社宅家賃値上反対・交通費負担切下反対、(5)五百円賃下反対等に終始積極的に行動発言したという。

しかし、土井が右(1)の闘争において職場闘争委員に選出されたことはなく、活躍した事実もない。(2)の闘争の際職場闘争委員に選出されたことは、本件救済命令の後に知つたことで、解雇当時、原告はまつたくこれを知らず、また同人が活躍したことも知らなかつた。(3)の昭和二七年四月職場委員に選出されたという事実はあるが、大して活躍はしていない。(4)の問題のうち、家賃・交通費の問題は、昭和二七年三月初頃、原告から組合三役に提案したものであるが、家賃値上は所得税の改正でやむを得ないこと、交通費負担切下も現状ではやむを得ないこととして簡単に解決し、結婚資金の問題も同月一七日原告から組合に提案したものであるが、同月下旬問題なく解決した。右の三問題は厚生関係のことで、従業員は大部分反対であつたが、原告会社の現状からやむを得ないとして、問題なく解決したもので、反対は土井だけが反対したわけではなく、また土井に活躍の余地もなかつた。(5)の昭和二七年五月五百円賃下反対闘争というのは、同月五日頃原告から組合に対し、さきに行つた昇給千円のうち、生産給五百円を除外する旨を通告し、組合は翌日緊急常任委員会を開いて反対の決議をし、同月一二日の経営協議会にのぞんだが、翌一三日の常任委員会で、情勢上やむを得ないとして原告会社の措置を承認し解決したものであり、これについて土井は、右経営協議会の席上、原告会社の生きる途は中共貿易にあると発言した程度で、そのほかに、見るべき活躍はしなかつた。土井の組合活動は、以上の程度を出でず、かりに、同人が、そのほか、組合関係で活躍したことがあつたとしても、原告としては、まつたく知らない。

そして、原告は土井のかくのごとき組合活動を決定的原因として同人を解雇したものではない。そのような原因で解雇するとすれば、土井の属した伸鉄部門においては、土井よりもまず菅原亀市が解雇されたはずである。

(二) 整理基準(四)に該当の点

(1)  配置転換の点について、原告が一般に配慮したところは、すでに小林治雄の関係で、前に述べた通りである。土井は、解雇当時年齢四一才、昭和二七年三月現在の給料は一月二二、三一一円(伸鉄課三三名中二位)で、配置転換に不向な身体障害もあり、高給である点安易な補助部門に廻すことも整理の趣旨に合わない。配置転換不能として、整理基準(四)に該当するものというほかはない。

(2)  なお、土井の属した伸鉄課については、当時課長欠員のため伸鉄主任の松原一夫が被解雇者の選考に当り、土井等三名を選んで内申したのである。ところで、土井は、昭和二六年九月頃社宅割当のないのを不満として総務課に辞職願を提出したが、松原主任の希望により慰留の結果辞職を思いとどまつた。(このことは、土井が組合で活躍し、また、原告会社がこれをにらんでいたというような事実のなかつた有力な証拠である。土井を排除したい意思があつたとすれば絶好の機会であり、単に辞職願を受理すれば足りたのである。)しかるに、土井はその後、昭和二七年一月頃再び松原主任に対し、社宅の割当がなければやめたいと申出で、また、同年三月末頃には、家を修繕してくれるか、社宅を割当てられなければ、他の工場からも来てくれといわれているから、他の工場に行きたいと、再三申出で原告会社で希望退職者を募る場合はその中に加えてほしい、その方が退職金が多いからよろしく頼むと、他の部署に退職者のあるたびに松原主任に申入れていた。そこで、松原主任は、上記被解雇者の選考に当つて資料として右の事情を考慮したものであり、その内申にもとずいて、総務課においては、土井の給料年齢等一切を勘案し、他課長の協議を経て整理基準の(四)に該当するものとみとめたわけである。

(三) 伸鉄工場の閉鎖と原職復帰の命令

土井の属した伸鉄課については、原告は昭和二七年五月一五日の第一次解雇で土井を含む三名を解雇したが、同年六月一五日の第二次解雇で、残り全員を解雇し、伸鉄工場を閉鎖した。そして、経営効率の上から、一名も配置転換はできなかつた。右伸鉄工場の閉鎖は、原告においてすでに同年二月頃から企図したところで、解雇は二回に分けて行つたが、通じて、工場閉鎖にともなう全工員の整理のためのものであり、組合活動を理由に土井を差別してあつかう余地はなかつた。この点からも、土井の解雇が不当労働行為に当らないことが明らかである。

従つて、土井は第一次の解雇にもれたとしても、結局第二次の解雇では、同工場の全工員とともに解雇を免れなかつたものである。そこで、仮に、土井の解雇が不当労働行為に当るとしても、その救済は、第二次解雇の伸鉄課全工員と同等に扱うことで十分であり、その限度を越えた保護を与えることは、労働組合法による救済の範囲を逸脱し、違法といわねばならない。また、伸鉄工場は現在もなお閉鎖しているので、土井を復帰させる原職または原職と同等の職場はないわけであり、その復帰を命じた被告委員会の命令は、実現不可能のことを命じたもので、中央労働委員会規則第三四条第一項第六号の規定からも、違法といわねばならない。すなわち、救済の内容は、上記昭和二七年六月一五日第二次解雇までの賃金相当額支払を命ずる程度を越えるべきではない。被告の命令中、右の程度を越えて賃金相当額の支払を命じ、また原職復帰を命じた部分は、違法として取消をまぬがれないものといわねばならない。

要するに、小林治雄、土井政一を解雇したのは、同人等が、整理基準に該当したためであり、また、原告はそう信じて解雇したものであつて、被告のいうように、企業整備に名をかりて、同人等の組合活動を決定的原因とし、差別的意思をもつて解雇したものではない。従つて、これを不当労働行為ということはできない。

以上の通り、原告の小林治雄、土井政一に対する解雇を不当労働行為とする被告の救済命令は違法で、全部取消すべきであり、仮に右が不当労働行為にあたるとしても、土井政一を原職または原職と同等の職場に復帰せしめることを命じ、前記昭和二七年六月一五日後の賃金相当額の同人に対する支払を命じた部分は、少くとも違法として取消をまぬがれないものである。よつて、その取消をもとめるため本訴におよんだ。』

被告訴訟代理人は主文同旨の判決をもとめ、答弁として、つぎの通り述べた。

『原告会社の設立・目的・資本・工場・従業員数等が原告主張の通りであること、小林治雄、土井政一が原告会社の従業員で、原告会社の従業員が組織する淀川製鋼所労働組合の組合員であり、同組合の役員の構成が原告主張の通りであつたこと、原告が、その主張の通りの経過により、整理基準をもうけて人員整理を行い、小林治雄、土井政一を原告主張の日時、原告主張の整理基準各項に該当するものとして解雇したこと、同人等が原告の主張の通り、被告委員会に救済の申立をし、被告が原告主張の日時、その主張通りの内容の救済命令を発したこと、その命令書に「事実の認定」として、小林治雄、土井政一について、原告主張の通りの組合における役員歴および組合活動を認定記載しまた、別紙記載の通り、「委員会の判断」を記載したことはみとめるが、原告のその他の主張は争う。

被告は、本件訴訟においても、右小林、土井の解雇につき、右命令書に示した判断を維持し、主張する。

不当労働行為たる解雇というためには、原告主張の通りの要件を必要とすることについては異存はない。しかし、使用者が解雇にあたつて、そのような点を積極的に表現することは、めつたにない。公正な題目をかかげて人員整理をする場合も、組合活動を現実に行つている従業員――組合役員として表面に活動する者もあれば、職場にあつて地味ではあるが芯のある組合活動をしている者もある――を便乗的に解雇する事例が少なくなく、その場合も使用者は整理基準該当者を解雇したにすぎないと、うそぶくのを常とする。原告会社も、結局、かかる使用者の一人であつたわけである。

被告委員会は、原告が解雇をするに当つて、被解雇者の整理基準該当の点とその組合活動の点と、どちらに重点をおいて解雇を決定したかを、審問の過程において確認し判断したものであつて、被解雇者に整理基準のどれかに多少該当する点があつたとしても、原告の小林、土井に対する解雇は、組合活動をする者を排除しようとする点に重点をおいていることを十分確認し、不当労働行為と判断したのである。

もともと、原告会社の労働組合が、昭和二五年のレツドパージまで、活動の盛んな組合であつたことは、一般の知るところであるが、レツドパージ後は非常に弱体化したことも、また、いなめない事実である。原告会社は、右のレツドパージにおいて、いわゆる「赤」を除くという名のもとに、まつすぐ、組合活動そのものをねらつて、活溌に組合活動をした者を排除したのであつた。そのため、従業員一般に、組合活動をすれば会社からにらまれると確信させ、事実またその通りであつた。例えば、その後の組合大会または執行委員会あるいは職場会議において、組合の主張を会社に要求すべきだなどと発言すれば、発言者が職場に帰る前に原告会社の側ではその発言内容を詳細に承知していたといわれるくらいであつて、一組合員についても、組合活動についての発言は容赦しなかつたのである。組合活動をした者が何時のまにか会社にいなくなるのを、「密殺」とよばれ、原告会社にはその例が多かつたようである。かようなわけで、原告会社の従業員は、組合活動をするには、よほどの勇気がなければならなかつたのであつて、本件の被解雇者の主張によれば、組合は御用組合で、原告の言いなりになり、組合員大衆の利益を代表していないのでこれに対し、正当な組合活動をするように、発言なり行動をすれば、すぐ原告会社ににらまれてしまうのである。これらによつて原告会社が、組合活動をする者を極度にきらつていたことがわかる。それどころか、組合の権利を無視することも平気で、昭和二八年冬の越年資金に関する争議においては、組合の存在までも否認するような態度で組合と闘つたのであつて、原告が組合活動にいかなる考えをもつているかを知るに足る。』

(証拠省略)

理由

原告会社は、昭和一〇年一月設立され、薄鋼鈑等の製造販売を目的とする資本総額五億円、株式総数千万株の株式会社で、肩書地に本社工場を有し、従業員約千六百名を数えたが、昭和二七年四月頃薄鈑業界が不況に落ちこみ、生産は需要を上廻ること二倍価格は前年同期の半額に低落し、製造業者はトン当一万円の赤字を出すまでの状態となつて操業短縮が一般化する情勢となつたので、原告会社もこれに対処して、資材の節約、機械設備の管理強化、補助部門から生産部門への工員の配置転換、そして週二、三回の命休制等種々の努力をつくしたが、情勢は日に悪化して、経営は危機に面するおそれがあつたので、ついにやむなく最後に人員の整理を行うこととし、昭和二七年四月七日その整理基準として、つぎの項目を決定し、解雇すべき者の選考に着手した。

(一)  長期欠勤者

(二)  労働能率低位の者

(三)  懲戒処分を受けた者

(四)  定員制の実施による課別均衡の是正による配置転換不可能の者

(五)  希望退職者

(六)  以上五項目に該当しなくても、総合的に低成績者で、常に業務上の指示に協力せず、職場能率を阻害する者および責任度と誠意を欠く者

そして、(1)同年五月一五日、一五一名(2)同年六月一五日、九〇名(3)同年七月四日、八九名、合計三三〇名の従業員を解雇した。

訴外小林治雄、土井政一は原告会社の従業員であり、原告会社の従業員の組織する淀川製鋼所労働組合の組合員であつたが、原告会社は右の整理において昭和二七年五月一五日土井政一を、同年七月四日小林治雄を解雇した。

これに対し、小林治雄は同年七月九日、土井政一は同月二二日それぞれ被告委員会に対し、同人等に対する右の解雇を労働組合法第七条第一号に規定する不当労働行為に当るものと主張して、同人等を原職または原職と同等の職場に復帰させ、解雇の日からその復帰の日まで得べかりし賃金に相当する金額を支払うよう原告に命ずる旨の救済の申立をし(大阪府地方労働委員会昭和二七年(不)第二六号事件)被告は昭和二八年四月一日右申立をいれて、原告に対し「小林治雄、土井政一を原職または原職と同等の職場に復帰せしめ、解雇の日より復帰の日まで同人等の得べかりし賃金相当額を支払うこと」との命令を発した。その命令書に、被告委員会の判断として記載されているところは別紙の通りであるが、要するに、右小林治雄、土井政一が、淀川製鋼所労働組合の組合員として、また職場委員ないし職場闘争委員となつて、昭和二五年一〇月の赤色追放反対闘争等を通じ、活溌な労働組合活動を行つたことを認定するとともに、原告が小林を前記整理基準の(二)(三)(四)(六)に該当する者、土井を同(四)に該当する者として解雇したと主張したのに対し、小林が右(二)(三)(四)(六)に、土井が(四)に該当する者でないと認め、反証なき限り、右の解雇は同人等が労働組合の役員ないし組合員として正当な組合活動を行つたことを理由としてなされたものであるとみとめるほかはないとの判断を与えた。

以上の事実は当事者間に争のないところである。

原告はまず、右命令書に記載された被告委員会の認定ないし判断について原告の主張立証した事実に対する判断が洩れていること、解雇が不当労働行為となるために必要な差別的意思の認定がないこと、および解雇の決定的原因を確定していないことを指摘して、これを違法と主張するが、右不当労働行為救済申立事件において原告が被告委員会に提出した答弁書の控である成立に争のない甲第一〇号証および被告委員会の審問記録たる成立に争のない乙第一号証の一ないし一五と対照して、命令書の記載としては原告の挙示するところおよび別紙の程度に端的に判断を記載すれば足り、これ以上、審問の過程にあらわれた諸事実に対する判断を逐一記載しなければならないものとは考えられない。また原告が小林、土井の組合活動を決定的原因として同人等を解雇したものとみとめたことは命令書の行文上明らかであり、さすれば原告の主張する差別的意思の如きは当然これに随伴する関係にあるので特に言及する必要をみない。従つて、被告の命令を命令書に必要的記載事項を欠いたという点で違法とする原告の主張は失当といわねばならない。なお、原告は本件命令が土井政一を原職又は原職と同等の職場に復帰させ解雇の日から右復帰の日までの賃金相当額を支払うことを命じているのについて、同人の原職場たる伸鉄工場は昭和二七年六月一五日に閉鎖され同工場の従業員は全部解雇されているのに同日後の原職復帰および賃金相当額支払を命じているのは不能を強いるものであり、また、不当労働行為たる解雇に対する救済の限度を逸脱しているが、敢て右内容の命令をしたことについて命令書に何等の理由が示されていないのは違法であると主張する。しかし、右命令内容の適否については後に判断するとして、命令書に救済の内容(主文)を決定した理由については、とくにその説明を記載しなければならないことはないので、命令書に右の理由の記載のないことは、命令をこの点で違法とするものではない。

そこで、つぎに、原告の小林治雄、土井政一に対する解雇が、被告委員会の判断した通り、はたして同人等が正当な労働組合の活動をしたことを理由(決定的原因)としたものであるかどうかを検討しよう。

これについては、まず、その前後、小林および土井の属する上記淀川製鋼所労働組合がどのような状態にあり、原告会社がこれに対しどのような対処の仕方をしていたかを明らかにしておく必要がある。

原告会社が昭和二五年一〇月右淀川製鋼所労働組合に対し、企業破壊的な活動分子たる共産党員およびその同調者を目標に掲げたいわゆるレツドパージ(赤色追放)を行い、組合長以下活溌に組合活動を行つていた役員ら五三名を解雇したことは、原告みずから主張し、被告においても明らかに争わないところである。

右の事実に成立に争のない乙第一号証の一、二、三、一〇、一一、一二(被告委員会の審問記録)中に星出哲夫、小西善吉、岡本徳一、本藤一、白井芳雄、林久雄、西田宗一、牛尾鉄三、菅原亀一の陳述の速記として記載されているところ、および、当裁判所における証人巣張秀良、白井芳雄、山内勉の証言を総合すると、次の事実がみとめられる。

右昭和二五年一〇月の組合役員らの大量解雇は直ちに組合の反対にあいその間しばらく抗争が続いたが結局原告会社が強力に押切つて組合を承認させその意図を貫徹した。組合は従業員三〇人に対し一人の割合にも及ぶ大量の精鋭分子を失い、それまで関西における最も尖鋭な労働組合とされていた同組合もこれにより著しく弱体化し、いわば勢にのつた原告会社との間に力の均衡が失われるにいたつた。その組合の弱体化はまず執行部の軟弱となつてあらわれその後も組合は原告会社との間に昭和二六年八月頃飯尾製鈑課長配置転換反対、夏季一時金要求、昭和二七年三月結婚資金交通費の支給減額反対、社宅の家賃値上反対、昭和二七年五月五百円賃下反対等の問題で会社と対立し、そのうち飯尾課長配置転換反対の際は闘争宣言をも発して要求貫徹の態勢を盛上げたのであつたが、結末はほとんどすべて会社のいうなりになつてしまつた。その結末はともかくその過程において特徴的なことは、執行部が組合員の要求のもり上りに対し、いわば最後のどたん場で急に腰くだけ的に会社の主張をのんで妥協し、組合員に肩すかしの感じを与えていたことで、そのために組合員の間に、組合長らが会社となれあい、はてはその度に会社から金銭を受け取つているとの声さえ起させ、自らの組合を御用組合とよびこれに対する不満を低迷蓄積させつつあつた。

このことは原告会社がその間に組合に対して行つた対抗策と表裏をなしている。原告会社は、前記組合役員らの大量解雇により組合の執行部をいわば壊滅させた後、その衝撃の下に無競争で選ばれた、組合長城戸三寿二(当時五八才)を信頼し、また同人を中心とする常任委員ら執行部の現状に満足していたので、改選期にそれに対立して立候補した者に、ある場合は転勤または退職させる等の圧迫を加えてその立候補をやめさせ、また会社に好都合と思われる者を立候補させて之を応援するなど、しんらつな干渉を加えて右組合長ら執行部の温存に成功していたものであつたかくして組合の幹部を大体において会社側に確保するとともに、原告会社の関心は組合における下部組合員大衆の動向に向わざるを得ず、組合員のうち会社に抵抗した活溌な言動をする者が現われてその言動が組合内において組織化され一般化されるのを妨げる必要があつたわけである。そこで原告会社は組合員の職場会議における発言や、組合の委員会における各委員の発言内容などを、組合員も驚くほどの敏速さをもつて探知し、活溌な言動のある者に対しては、あるいは職制上の上長から警告したり、無理な配置転換をして退職させたり、時に密殺と呼ばれる任意退職の形をとつた解雇を行い、これに牽制されて組合員の職場また委員会大会等における発言も役員に立候補することも低調となり、組合活動に関与せんとする意慾を委縮せしめる結果となつていた。

こういう情勢の中で組合に対する現在の優越関係を維持せんとする原告会社としては、組合内部において執行部が下部の組合員大衆からもり上る力によつて圧倒され支持されていきおい変質硬化せざるを得なくなる事態となるのを未然に防いでいかねばならないわけで、そのためには何よりも組合内部における組合員個々の言動に最も警戒の眼を注がねばならないことになるわけであつて、原告会社が上記のように組合員の言動を敏速に探知していたことなどはこれに符合する原告会社の態度を物語るものである。

そうすると労働組合法第七条第一号にいう労働組合の正当な行為をしたことの故をもつてする解雇、いわゆる不当労働行為たる解雇が行われるとすると、この場合組合員の組合内部における言動をねらつて行われる可能性こそ最も強いと考えなければならない。言葉をかえていえば、不当労働行為たる解雇は組合活動を活溌に行う者に対して向けられるのが普通であるが、それは活溌な組合活動を使用者が自己に不利だと考えるからであり、本件の場合原告会社が自己に不利だと考えるような活溌な組合活動は、会社と組合との団体交渉などの面にあるわけではなく、主として組合内部の組合員の言動の面に存したということが出来るわけである。

そこで前記小林治雄、土井政一に対する解雇が同人らの組合活動を原因としたものか否かにつき同人らがまず解雇の原因となるような組合活動をしたか否かを問うに当つては、組合内部における言動がこの場合重要なものとしてとり上げられなければならないこととなる。

つぎに、解雇が組合活動を原因とした不当労働行為たるためには、使用者がその労働者の組合活動を決定的原因として解雇したことを要することは、原告の主張する通りであり、これは解雇の動機の問題であるから、使用者が、その動機たる労働者の組合活動を知つていなければならないことは、いうまでもない。そしてこれは使用者の主観の問題であるが、この場合、使用者といつても、その労働者を解雇する権限のある者のみの主観が問題になるのではない解雇の対象として特定の労働者が選択される具体的な過程において、事実上その選択に決定的に寄与した者の主観が問題になるのであつて、たとえば労働者の勤務成績を、ある職員に判定させ、その判定を信頼し、これに基いて解雇がなされたような場合、その勤務成績の判定が、当該労働者の行つた組合活動に対する使用者的反感から歪曲され、それが解雇に決定的な影響を及ぼしているならば、たとえ専務取締役とか総務課長など、解雇の意思表示につき最終的な意思決定を行つた者が、右労働者の組合活動について、何の認識ももたなかつたとしても、なお、不当労働行為たる解雇たりうるものといわねばならない。

さて、原告の上記人員整理が、不況対策として、生産の縮少、人件費の節減を目的として行われたこと前記の通りであるとしてもかかる機会を利用して組合活動を活溌に行う者の排除を意図することもあり得るわけであるから、小林および土井の解雇が、かかる意図によるものでなかつたか否かは、さらに検討を要するところである。これについて、原告は、小林および土井が、いずれも原告の定めた前記整理基準に該当し、そのために解雇したと主張するので右該当の有無について検討の必要があるが、はじめにまず、右整理基準の各項がもつ意味および原告が解雇者の選択に当つて、現実にどの程度にこれを適用したかの点を考察しておこう。

整理基準は前記六項目にわたつているがそのうち前記(五)の希望退職者は解雇の必要がないわけであるから、人員の自然減を見込んだという意味をおいて、解雇についての基準としては問題とならない。また、(一)の長期欠勤者についても別に問題はない。(二)の労働能率低位の者についても、個々の認定の適否は別として、解雇基準としては別に問題はない。しかし、(三)の懲戒処分を受けた者については、はたして独立に適用すべき基準か否か疑わしい。軽度の懲戒処分を受けたことがあるとしても、日常の作業能率または成績はきわめて優秀な者もあり得るわけで、能率ないし成績との比較を無視し、右の項目に該当するということだけで解雇する趣旨であるかどうか疑わしい。能率ないし成績とにらみ合せて解雇の基準とするという意味に解するのが常識的である。(四)の配置転換不可能の者というのも、配置転換不可能の問題がおきるのは、その者を現在の部署から剰員として排除することが決定された後でなければならないわけであり、一定の部署について誰を剰員として排除するかの決定には、また別な基準が要るわけであるから、右配置転換不可能という基準は、解雇基準としては第二次的な基準とならざるを得ない。(六)の総合的に成績の低い者は、補充的な基準として示されてはいるが、全項目と対比し、概括的な基準として、他の項目に統一を与える。もつとも重要な項目ということができる。

これを本件整理の具体的経過に即してみると、原告が、まず一般にこの整理にともなつて工員の配置転換をすることは、はじめから断念していたこと、原告の主張自体からもほぼ明白ということができるし、成立に争のない乙第一号証の四中の久米幸朔の陳述速記からもみとめることができ、これによると、現に配置転換を行つていないことがみとめられる。そして成立に争のない乙第一号証の一三中檜垣貴雄に対する尋問の速記および証人白井芳雄、鎗水澄夫上田知作の証言を総合すると、懲戒処分を受けた者という整理基準が、被解雇者の実際の選考にあたり、労働能率とか総合成績をはなれては、大して重視されず、場合によつては無視されていたことがみとめられる。

そうすると、整理基準のうち、解雇基準として重要な意味をもち、実際にも被解雇者の選考に決定的な基準となつたのは、そのうち(一)の長期欠勤者を別にすると、(二)の労働能率低位の者と(六)の総合的に低成績者という二項目であつたということができる。

ところで、右二項目を適用するについて、原告会社が、どの程度の資料によつたか、成立に争のない甲第二号証の一、二(小林および土井の成績表)および前記乙第一号証の四中の久米幸朔、鎗水澄夫、成立に争のない乙第一号証の五中の長谷部万吉の各陳述速記と証人上田知作、鎗水澄夫の各証言を総合して、これをみると、製鈑課についてではあるが、各従業員の能力成績出勤率等について結論的な採点を記した程度の成績表を年一、二回昇給の参考に作成していたほか、本件整理に当つてあらためて同様の成績表をつくつた程度で、そのほかに、出欠の点を別として、各従業員の日常の労働能率なり成績なりについて、とくに記録したものはなく、結局、被解雇者の選考の衝に当つた課長や各係の社員が、各個の記憶と印象によつて判断したものであることがみとめられる。そうして、右の二項目、ことに(六)の項目は、他の長期欠勤者とか、懲戒処分を受けた者とか、該当の有無が客観的にはつきりした項目にくらべて適用が主観的にながれ易い項目であり、よほど細かい確実な記録によつて裏付されないかぎり、適用する者の別な原因による好悪の感情に支配されやすいものであることが思い合されねばならない。

以上の考察のもとに、小林および土井について、その解雇原因等を各別に判断しよう。

一、小林治雄の関係

まず、組合関係をみよう。

淀川製鋼所労働組合では、役員として組合長一名、副組合長二名、書記長一名、常任委員九名が一般組合員の投票によつて選挙され、つぎに、各職場別に職場委員三八名が選出され闘争体形をとつた場合には、別に職場闘争委員が選ばれていたことは当事者間に争がなく、小林が昭和二四年八月から昭和二五年一〇月までと、昭和二七年五月二一日頃から解雇にいたるまでの間、職場委員に選ばれており、また昭和二六年八月の飯尾製鈑課長配置転換反対闘争の際、職場闘争委員に選ばれていることは、前記乙第一号証の一、二、一二中の星出哲夫、小西善吉、鴛田新太郎の各陳述速記と証人曽我藤道、小林治雄、巣張秀良の各証言によつてみとめることができ、証人岩佐恒造の証言によつて真正に成立したとみとめられる甲第三、四、五、七号証(組合事項についての原告会社側の記録)には、上記各証拠と対比すると誤記があり、また組合役員を完全に記録してもいないとみられるので、右の認定を動かすに足りないし、他に右認定を動かすに足る証拠はない。

そして前記乙第一号証の一、二、一〇、一二中の星出哲夫、小西善吉、西田宗一、鴛田新太郎の陳述速記および証人奥谷計次の証言を総合すると、職場委員は組合の委員会に出席して組合の方針等を決定する論議に参加し、時に会社との経営協議会に出席発言し職場においては職場会議をひらいて各組合員に組合の情勢等を報告し、意見を交換し、これを執行部にもたらし、各職場と執行部との意思の疏通に寄与することを中心的な任務とする委員であるが、小林は、職場委員として、また職場闘争委員として、他の職場委員に比してもつとも積極的に忠実にその任務を遂行し、組合の委員会での発言および職場においての報告討議等において、整備係の中にあつては、組合活動のもつとも熱心な推進者であつたことがみとめられ、組合内部におけるかかる活動こそ当時原告会社において警戒の的となつていたところであることは、前に考察したとおりであり、上記認定のように小林は解雇当時、まさに職場委員の地位にあつて、右のとおりの活動をしていたわけである。

ところで、成立に争のない乙第一号証の四、五、六中の久米幸朔、鎗水澄夫、長谷部万吉の各陳述速記および証人久米幸朔、上田知作、鎗水澄夫、静間宗雄の各証言を総合すると、小林の属した製鈑課整備係の機械整備担当の工員九名のうち、解雇されたのは小林治雄、奥谷計次、星出哲夫、新徳某の四名であつて、その人選は、製鈑課長久米幸朔、製鈑課長代理上田知作、製鈑課人事係静間宗雄、製鈑課主任で整備係の責任者であつた鎗水澄夫、整備係の職員長谷部万吉、西口某等が関係して選考が行われ、最後に総務課の課長等人事関係担当者の手に渡つて解雇が決定されているのであるが、小林等はすでに製鈑課長の手許で被解雇者として浮び上つており、その過程において、小林等の成績等についての右鎗水、静間の意見が徴され、また長谷部、西口の意見が加わつているのであつて、そのうち、鎗水、長谷部の小林等に対する評価が、右の人選を決定させたものであることがみとめられ、鎗水、長谷部は日常職場で小林等に接し、ことに、長谷部は組合員の一人でもあつたので、小林の前記組合活動をよく知つていたものと考えなければならない。鎗水、長谷部は上記同人等の陳述速記および証言において、小林の組合活動を知らなかつたというが、その点は信用することができない。

そして人事を担当する総務課においても、前認定のように組合員の言動を敏速に探知していたところから考え、小林の組合活動を知つていたと推測できるのであるが、たまたま総務課長なり総務課長代理が、小林についてその組合活動をはつきり意識していなかつたとしても、上記人選を支配した鎗水、長谷部の小林に対する評価がいかなる考慮にもとずくものであつたかによつて、小林に対する解雇の決定的原因はきまるのであつて、右課長なり課長代理等の認識の欠如は、その点の判断を左右するものでないこと、前に論説したとおりである。

さて小林の解雇原因について原告は、整理基準の(二)(三)(四)(六)の各項目に該当したのが原因であると主張する。そこで前に考察したところによつてそのうち最も重要な項目と考えられる(二)の労働能率の点と(六)の総合成績の点をまず小林について検討してみよう。

これについて原告は、六点にわたつて小林の怠業等の事実をあげるのであるが、そのうち、昭和二七年五月一二日の浜田専務巡視の際の事件は別に考察するとして、その他の事実は、前記鎗水澄夫、長谷部万吉の記憶と印象に関するものであり、これを、同人等の前記乙第一号証の四、五、六中の陳述速記および当裁判所における証言によつてみれば、小林が作業時間中他の工員とともによく休んで煙草をのんでいたのを目撃したという点を中心として、そのために、昭和二七年五月頃のある日には、午前中に仕上がる予定のバリケン台組立の仕事が、午後四時までかかつたといい、また、他の工員と組んで仕事をするとき楽な方にばかり廻つていたというのである。しかし、仕事が一段落したとき、一休みして煙草をのむことは、当時原告工場において一般に行われていたことで、従業員も監督も普通のこととして特に怪しまなかつたことは、前記乙第一号証の四、一二中の久米幸朔、鎗水澄夫、鴛田新太郎の各陳述速記および証人久米幸朔、奥谷計次の各証言によつて明らかである、鎗水、長谷部が、小林についてとくにその点に言及しているのを、上記同人等の陳述速記および証言によつて考究してみると、同人等の関心の焦点は、休んで煙草をのんでいたということ自体よりも、むしろ、その際小林が中心になつて話をしており、その話の内容が原告会社に対する批判にわたつていたという点にあり、また、これが他の工員に与える影響を目して、勤労意慾をそぐと評価した点にあつたことがうかがわれ両人とも小林について、同人のような人間を好まないという風な言い方で反感を表明し、小林は弁が立つともいつているのであり、つまり、小林がその職場において会社に対する批判の中心的発言者であるとみられるところに、警戒と反感を向けている趣を観取することができる、これを、前記乙第一号証の一、二および一二中に、小林の整備係における同僚工員であつた星出哲夫、池田宇之助、小西善吉、鴛田新太郎の陳述の速記として記載されているところにより、上記鎗水、長谷部の評価と異り、かえつて小林が、相当によく仕事もし、とくに怠けたという点もなかつたと思われるのと対比し、なお証人小林治雄の証言を参照すると、鎗水、長谷部が小林について示した評価には、かなりの歪曲があるとみとめなければならない。

昭和二七年五月一二日、浜田専務が総務課長代理岩佐恒造をともなつて製鈑課の工場を巡視した際、整備係の小林小西、星出、奥谷、新徳の五名が、仕事を休んでいるのをみとめ、岩佐課長代理から注意を与えて去つたが、ふたたび同課長代理がひとり引返してきてみると、まだ仕事にかからず煙草をのんでいたので、叱責したところ小林が、そんなにがみがみいわなくてもよいではないかといつたこと、翌日同課長代理が小林等を総務課によび、始末書の提出を求めたところ、小林等がこれを拒み、憤慨した同課長代理は、小林等を懲戒解雇するとまで言つたが、組合幹部のとりなしで、解雇にはいたらず、譴責処分にすることになつたことは、証人岩佐恒造の証言によつてこれをみとめることがでさる。この点について、原告は、右の譴責処分は小林に告知しなかつたので懲戒処分としては効力がなかつたけれど、原告会社は誤解して、譴責処分に付したものと考え、小林を整理基準(三)の懲戒処分を受けた者にも該当するものとして、これを解雇の原因としたとも主張するが、証人片野養蔵の証言によつても、本件整理において、懲戒処分を受けた者というだけで解雇した者は一人もなかつたのであつて、右の事実についても、解雇原因として原告の強調するのは、その点よりも、小林の右の行為自体であること、弁論の全趣旨からも明らかである。ところで、前記乙第一号証の一、二中の星出哲夫、小西善吉に対する尋問の速記および証人奥谷計次、小林治雄の証言によれば、右浜田専務巡視の際は、小林等五名は丁度仕事が一段落したので、一休みし煙草に火をつけようとしていた時で、岩佐課長代理が、何をしているかとたずねたので、そのことを説明し、専務等が去つたので、すぐ煙草に火をつけたところ、その煙草の「ひかり」の「ひ」の字も消えないうちに、岩佐課長代理がひとり引返してきていきなり、「立て」とどなりつけ、大声で叱責したのであつて、小林等にしてみると、一休みして煙草をのむことは普通のことで、特に悪いとも感じていなかつたところとて、岩佐課長代理の意外の興奮をいぶかしがり、小林が、そんなにがみがみいわなくてもよくはないですかと言つたものであること、また岩佐課長代理の右の興奮は、小林等五名の行為自体を悪いとしたためよりも、浜田専務の思わくをおそれた結果であることをみとめることができる。だから、行きがかり上解雇するとまで口走つたのであるが、組合幹部からも話をされてみれば、小林等の行為自体は、専務の目にとまつたということを別にすれば、さしていうほどのことでもなかつたわけで、大声で興奮したのも、冷静になつてみれば、おとなげないと感じたはずである。残るのは小林が興奮した岩佐課長代理をたしなめ、また始末書の提出を拒んだという行為であり、小林のそういう、課長代理に対しても、ある程度対等の姿勢をとる態度に、いまいましさは残つたかも知れない。しかし、岩佐課長代理の小林に対する感情はともかく、その経過をきいたにすぎない久米製鈑課長なり上田製鈑課長代理、また鎗水、長谷部等、右の事件の第三者が、小林の成績を評価するについては、右は仕事を一休みして煙草をのんでいたということ以上に多く出でない事実となるほかはない。ただ、上司に対する対等の姿勢を忌むという点では、小林の成績について、整理基準(六)を適用する上に関係をもつてくることが考えられるが、その点になると、組合員としての小林の姿勢とも相重なるもので、小林の前記組合活動を思い合せると、解雇原因としては、組合活動に自然と重点が移つてゆくという微妙な関係を考えないわけにはいかない。

そのほか、小林が昭和二六年九月製鈑課の倉庫係に廻されたのを、原告は、同人に協調性がなく、若い工員をそそのかして、勤労意慾をそぐ言動があつたためであるといい、この点に鎗水主任の評価を導入するのであるが、鎗水の評価については前述したとおりであり、また証人静間宗雄の証言によると、実は、小林を倉庫係に配置したのは、製鈑課人事係の静間宗雄であるが、静間は前記整備係の長谷部や西口、また伍長の飯島の意見をきいて小林を倉庫に廻したというのであるが、小林に対する長谷部の評価について前述したところから考えて、右が、その間、小林に対する上記原告主張のような評価に基いたものとしても、その評価自体小林の組合活動をにらんでの評価でなかつたかどうか、時あたかも小林が職場闘争委員をつとめた、前記飯尾課長配置転換反対闘争の直後頃のことであることをも思い合せて、まことに疑わしいといわねばならない。

そして前記乙第一号証の一中の星出哲夫、池田宇之助の陳述速記および証人小林治雄の証言によれば、小林は昭和二六年八月末頃から昭和二七年四月頃まで、星出、池田とともに上記倉庫係に配置されたものであるが、右倉庫係は製鈑課の部品等の保管出納をする相当責任のある仕事でもあり、三人が一日三交替の勤務で小林の勤務状態は、出勤も三〇分から一時間早めにし、物品の出納を帳簿上よく整理して能率をあげるなど、成績としてみるべきものがあつたのであつて、虚心にみれば、その成績を買つてやらねばならなかつたものとみとめられる。

また整備係における勤務状態についても、前出乙第一号証の一、二および一二中の星出哲夫、池田宇之助、小西善吉、岡本徳一、鴛田新太郎の陳述速記、証人奥谷計次、曽我藤造の証言を総合すれば、大体整備係の仕事というものがいわば雑役で、とくに技術を要するものでないところから、能力なり成績に大した差がつかない仕事であるが、それでも小林は年長でもあり経験もあつて、数人組んで仕事をする時は、その中心となつて仕事の段取をし、指導をし、仕事に対するまじめさも欠かず、少くとも普通以上の成績を示し、解雇されずに残つた小西善吉、鴛田新太郎等にくらべても遜色がなかつたことがみとめられる。前記陳述速記や証言にあらわれた鎗水澄夫、長谷部万吉、静間宗雄の小林に対する評価は、小林に仕事の熱意がなく、怠けがちであつた旨右とまつたく趣を異にするのであるが、上記星出哲夫以下の陳述速記と対比しつつその評価の過程を検討すると、前述のように日常の組合活動を通じて小林の示す言動姿勢に対する使用者的反感によつて、歪曲された結果であるとみとめなければならない。

以上により、小林の労働能率が別に低くもなく、また、業務上の指示に協力せず職場能率を阻害し、責任度と誠意を欠くといつた点(整理基準(六))も見当らず、かえつて、解雇されなかつた者にくらべても遜色がなかつたとみとめてよいと考えられるので、同人が整理基準(二)(六)に該当するということは、機械整備担当の九名について相対的にいつても、必ずしも当つていなかつたといわねばならない。

そうして、整理基準(二)(六)に該当の点がみとめられないとすると(三)の懲戒処分を受けた者という項目は解雇理由として決定的でなかつたこと、(四)の配置転換不可能という点も問題として浮び上つて来ない関係にあること、上来すでに説明したとおりである。

原告は、右整理基準(四)について、年齢および給料の高い点が考慮されたと主張し、配置転換の能否についてでなく解雇の直接の基準として、年齢給料を考慮したというのであれば、はじめから一応解雇の基準となり得ると考えられるが、小林の解雇についてその年齢給料の故に解雇したものであるとみとめるに足る証拠は何もない。

そこで小林の解雇原因について、前述した小林の組合活動の点と、整理基準適用の実情とを参照して考えると、小林を解雇の対象に選ぶことは上田製鈑課長代理の手許で実質的な決定を受けており、その決定を支配したものは、小林の成績に対する鎗水、長谷部の判定であり、その判定は、小林の上記正当な組合活動に対する鎗水、長谷部の使用者的な反感によつて歪曲されていたということからいつて、すでに小林に対する解雇の決定的原因となつたものは、小林の正当になした前記組合活動であつたと推認するのが、相当であると考えられるが、さらに総務課において小林の組合活動状況を探知していたと推定できること前認定の通りであるほか、岩佐総務課長代理、久米製鈑課長、上田製鈑課長代理において少くとも上記昭和二七年五月一二日のことがあつて後は明らかに小林の存在を認識し、これを契機に小林の組合活動を同人の日頃の勤務状態として聞知する機会があつたとみとめられること証人岩佐恒造、久米幸朔、上田知作の各証言から推認できるところであり、さすれば同人等の手を経る過程においても、小林の選択が組合活動に対する反感から決定され維持されていつたとみなければならない。

そうすると、原告の小林に対する解雇は、同人の正当な組合活動を決定的原因としたものとみとめた被告委員会の判断は結局正当であつて、これを違法とする原告の主張は、いずれも理由がない。

二、土井政一の関係

やはり、まず、組合関係の点から考察をはじめよう。

土井が、昭和二五年一〇月の赤色追放反対闘争および昭和二六年八月の飯尾忠夫製鈑課長配置転換反対闘争の際、職場闘争委員となつたこと、昭和二七年四月以降職場委員となつたことは、前出第四および第七号証、前出乙第一号証の一二の中の滝本巖、菅原亀一の陳述速記および証人土井政一の証言によつてみとめることができる。

そして、前出乙第一号証の二、三、一〇および一二の中の本藤一、林久雄、西田宗一、滝本巖、菅原亀一の陳述速記と証人山内勉の証言とによれば土井は、例えば、昭和二五年一〇月のレツドパージの時、会社が一方的に解雇を発表した場合は、直ちに作業を中止して職場会議をひらき、会社に抗議することに、職場会議の決議できまつていたので、いよいよ同月二五日解雇の発表があつた際、土井等の属する製罐課伸鉄工場の当時の職場委員であつた滝本巖は直ちに職場会議を招集したが、その時同所には、事務所の職員二、三人がモーターのそばに配置されて監視に立ち、また松原製罐主任自身現場に立つて作業の続行を命じたため、組合員はこれに威圧されて作業の中止ができないでいたところ、土井がひとり率先して作業を中止し、他の工員達に対し、組合員として自ら決議したところには忠実に従うべきであることを涙をふるつて叫び、また監視の職員に対しても、同じ組合員でありながら会社側の行為をすることは何ごとかと非難したため、ついに一同作業を中止して職場会議をひらくことができたということもあり、委員会等においては、西田宗一の言葉をかりると、臆面もなく活溌な発言をし、時に皆を唖然とさせるほど、所信をはばからず表明するので、ある経営協議会に出席したときなど、その発言のため専務に名前をきかれたこともあるなど、注目をひく存在であつて、職場にあつても、実直に組合活動を推進していたことをみとめることができる。

そして、その属する製罐課伸鉄工場において、出勤率百パーセントのもつとも優秀な熟練工であり、他の工員達をひつぱつて大いに能率をあげるに寄与し、その成績の優秀なことは、同僚工員はもとより、製罐課主任松原一夫(当時課長欠員)も卒直にみとめるところであり、この点は成立に争のない乙第一号証の二、七および一二の中の本藤一、松原一夫、菅原亀一の陳述速記と証人山内勉、松原一夫の証言によつて明白である。

原告は、土井の解雇原因を、前記整理基準(四)の配置転換不可能の者に該当した点にあるというが、配置転換不可能という基準が解雇の第二次的基準たり得るにすぎないことは前に考察したところであり、土井を解雇の対象として選ぶことは、松原製罐課主任と総務課との間の交渉の中で決定されているのであるが、現にその決定が、実際にも決して配置転換不可能の見地からなされたものでなかつたこと、なおまた、同人の年齢給料の点を考慮したためでもなかつたことは、上記松原一夫の陳述速記および証言によつて明らかにみとめることができる。それによると、土井を解雇の対象としたのは、同人が以前、社宅の割当のないのを不満として総務課に辞表を出したことがあり、その後も松原主任に退職の意思を表明していたので、本件整理に当つて総務課から伸鉄工場に三名の解雇の割当があつたのに対し、やむなくその一人に土井を加えたというのであるが、それにしては、整理基準中には、希望退職者の項もあるのに土井に対しあらためて退職の希望をたしかめることも、任意退職をすすめることもせず、いきなり解雇したことは諒解できないところであり、その間のあいまいさはおおうべくもないと思われる。

一方、上記乙第一号証の七および一二の中の松原一夫、菅原亀一の陳述速記、証人土井政一の証言を総合すると、前記松原一夫は、土井に対し、よく組合運動をやめるように注意を与えており、解雇に当つても、組合活動が原因となつたとの口吻をもらした事実、また証人滝本巖の証言によると、滝本巖は、もと原告会社につとめ、土井と同じ伸鉄工場にいて、昭和二五年一〇月のレツドパージで解雇されたものであり、その間組合活動の点では土井を指導した関係にあつたが、その滝本が、土井の解雇される一週間程前に、尼崎のカフエー百万弗で原告会社の総務課長片野養蔵と偶然会つたとき、片野が滝本に対し、土井のことに言及し、土井の組合活動に関連して、同人が解雇されることがあれば、かつて土井を組合活動に導いた滝本の責任であるということをいい、また、土井の解雇の日の頃、同じカフエーで前記松原一夫に会うと、同人は滝本に対し、土井が解雇になつたことを話し、土井が松原の注意にもかかわらず、あまり熱心に組合活動をやつたため会社との関係上解雇せざるを得なかつたと語つたという事実がいずれも認められるのであつて、これに対し証人松原一夫は、その頃にはそのカフエーで滝本に会つた記憶がないと証言し、証人片野養蔵は右のような話をしたことはないと証言するが、いずれも信用することができない。

これらの事実に土井の前記組合活動を合せて考え、原告の主張する整理基準該当の点がまつたくみとめられず、その他の解雇原因もきわめてあいまいな点と対比すれば、土井の解雇は、同人の正当な組合活動を決定的原因としてなされたものであると認定せざるを得ない。

これについて原告は、土井が前述のように総務課に辞表を出したことがあり、もし原告に土井を、その組合活動の故に解雇する意思があつたとすれば、その時辞表を受理すれば足りた絶好の機会であつたのに、かえつて慰留したのは、原告に右の意思がなかつた証左であると主張し、土井が前記のように辞表を提出した事実のあつたことは、証人土井政一の証言によつてもみとめることができるが、前記乙第一号証の七の中の松原一夫の陳述速記によると、松原主任が土井を手離したくなくて慰留し、辞表を撤回させたのであり、結局、前述した土井の成績と考え合せると、その成績の点から土井を手離したくないとする意向が勝つた結果と考えられる、そして、前記の通り、土井が昭和二七年四月新たに伸鉄工場の職場委員に選出されているところと思い合せると、原告会社としては、情勢上やはり土井の組合活動を重視せざるを得なくなつたのだと考えることができるので、右辞表提出のいきさつも、上記認定をくつがえす資料とは考えられない。

原告はまた、土井の解雇当時すでに土井の属した伸鉄工場の閉鎖は既定の事実であつて、土井の解雇も、もつぱら伸鉄工場閉鎖のためであつたと主張するが、伸鉄工場において土井は他の二名とともに第一回目に解雇されたものであるが、閉鎖が当時すでに既定の事実であつたとすれば、どうして三名だけまず解雇したか諒解できないし、前記松原一夫の陳述速記と証人松原一夫、岩佐恒造、片野養蔵の各証言によつても、その第一回解雇当時はまだ伸鉄工場の閉鎖は決定していたわけではなかつたことがみとめられるので、原告の右の主張は結果論にすぎないといわねばならない。

そうすると土井の解雇を同人の正当な組合活動を決定的原因としたものとみとめた被告の判断は結局正当であつてこれに反する原告の主張は理由がない。

最後に、原告は、土井の属した製罐課の伸鉄工場はすでに昭和二七年六月一五日残りの所属工員全部を解雇するとともに閉鎖したものであるから、土井は前記五月一五日に解雇されなかつたとしても、右六月一五日には他の工員とともに解雇を免れなかつたし、また、右伸鉄工場閉鎖後、土井の復帰すべき原職または原職と同等の職場はないと主張し、被告の本件命令中、土井を右伸鉄工場閉鎖後に原職または原職と同等の職場に復帰せしめることを命じ、また右閉鎖後についても賃金相当額の支払を命じている点を違法と主張する。そして、右伸鉄工場の閉鎖と所属全工員解雇の事実は、前出乙第一号証の六の中の松原一夫の陳述速記と証人片野養蔵、岩佐恒造、松原一夫の各証言によつてみとめることができる、しかし右乙第一号証の六によれば、伸鉄工場は不況のためしばらく休んでみようということで閉鎖したものであり、昭和二七年九月七日頃には、すでに松原一夫は原告会社から伸鉄工場の再開の指令を受けており、ただ材料の手配ができずまた製品の価格も十分に出ていないため再開を手控えているにすぎない点がみとめられる。

ところで土井の解雇は前記の通り、その正当な組合活動を原因としてなされたものとみとめられるところから労働組合法第七条第一号に違反し当然無効であり、土井は依然として原告会社の従業員たる法律関係にあるものであり、これは被告委員会の救済命令の結果ではない。土井が原告会社の従業員たる地位を保有する以上、原告に対し、土井を原職に復帰させ、また復帰までの賃金相当額を支払うことを命じたとしても、原告にはじめからその義務のあるところを命じたまでであつてこの点からも、被告の命令が、救済の範囲を逸脱しているものとも考えられない。

また解雇を不当労働行為と判断した上で、被解雇者にいかなる内容の救済を与えるかは、労働委員会の専門的な裁量に委された事項であり、著しく不当なことが明らかな場合違法となる場合があるとしても、上記のような事実関係のもとでは、土井が本件救済命令の結果、伸鉄工場にいた他の工員よりも、一応結果的に有利なことになつたとしても、それだけで被告の救済の内容を違法とするにはいたらないものと考える。本件においてその間の被告委員会の裁量の過程については、裁判所としては臆測の域を出でないが、右伸鉄工場の閉鎖ないし再開の関係をいかに評価するかという点などに考慮をおよぼした跡が、前記乙第一号証の六にあらわれた審問過程にもうかがわれるのであつて、それ等諸般の事情を考慮の上、右救済命令の内容が決定されたものと思われる。従つて、右を裁量の範囲を逸脱し、または不能を命じたものとする原告の主張は、直ちに採用することができない。

以上の通り、原告が、被告委員会の本件救済命令中、小林治雄および土井政一に関する部分につき、その命令を違法と主張する点はすべて理由がないことに帰し、右の命令は、命令書の形式においても判断の内容についても、すべて適法に行われたものとみとめられるので、右命令の取消をもとめる原告の本訴請求は失当として棄却することとした。

よつて訟訴費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用し、主文の通り判決する。

(裁判官 山下朝一 鈴木敏夫 萩原寿雄)

(別紙)

委員会の判断

会社の数次にわたる人員整理それ自体は企業整備の必要上実施されたものであり会社としてはやむを得ざる処置であつたとしても会社がこれら人員整理の実施に当り整理に藉口して組合の活動分子を差別的に被整理者に含ませたか否かの点に依然として不当労働行為の問題が存在する。

しかして申立人山田、同上岡については前記認定の如くその行つた組合活動の諸事実は解雇の原因と考え得る程度のものではなく同人らの組合活動を理由とする差別的意思が同人らの解雇についての決定的原因であつたとは考えられないから不当労働行為は成立しないと云わなければならない。そこで会社は申立人小林、同土井は前記整理基準に該当する故解雇したと主張するのでこの点について判断するに、申立人小林については前記認定の如く整理基準第二、三、四、六項に該当する故解雇したと主張するが、第二、六項についてこれをみるに証人星出哲夫、同池田伊之助、同長谷部万吉、同鴛田新太郎の各証言によれば申立人小林が製飯課倉庫勤務中には当時倉庫の開設が初めてであつた為帳簿が非常に不備であり、設備も十分でなかつたため、申立人小林は計算の早見表或は一覧表を立案し仕事の便利なように積極的に働き且当時勤務が三交替制であつたが、一時間乃至三十分早くきて、倉庫勤務の申送りを受け或は帳簿の計算を早くやるなど真面目に仕事に従事していたことが認められ、且物品の監視、出入れを委され信頼性と責任度なくしては勤まらぬ倉庫勤務に配置されていたこと、より考え併せればこの整理基準に該当する事実を認めることはできない。

次に整理基準第三項についてこれをみるに、昭和二十七年五月十二日午後二時頃巡視中の專務取締役浜田正信、岩佐課長代理は「八号機」裏において申立人小林他件外人四名が休憩雑談中を発見、直ちに作業するよう注意し、後再度岩佐課長代理巡視の際依然として休憩喫煙中であつたため注意し、翌十三日始末書の提出を求めたことについては当事者双方に争のないところである。しかしながら証人星出哲夫、同池田伊之助の各証言によれば当時始末書の提出を拒否した申立人小林他件外人四名は当該問題の処理を城戸組合長に一任し、その後組合幹部が折渉の結果服部敏之書記長より心配せず働く様にとの話があり、且総務課よりはなんの話もなく始末書を提出せずに終つたことが認められるのでこの事件は組合幹部のとりなしで譴責処分に至らずに済んだものというべきである。而も仕事中の喫煙は原則として禁止されているが、仕事の一段落ついたときなど一服するということは従来でも度々あり黙認されていたということが認められるので以上の事実をもつて整理基準第三項に該当するという会社の主張は採用できない。

従つて、残る問題は整理基準第四項であるが、この点については申立人土井についても共通するので一括判断するに証人池田伊之助、同長谷部万吉、同鴛田新太郎の各証言によれば当時申立人小林らと共に解雇を申し渡された圧延課食堂勤務甘田梅太郎他二名に対し同年七月四日製飯課課長代理上田知作が日雇で今迄の作業を続行してもらいたい旨申入れ拒否されたこと、或は証人松原一夫、同本藤一、同滝本巖、同菅原亀一、同牛尾鉄三、同白井芳雄の各証言によれば申立人土井を馘首後同年五月十七日伸鉄の人員不足のため日雇を募集したこと、ネヂ切りの者が一部休日出勤して伸鉄の方へ応援に行つたこと等が認められるので本件人員整理は特定部門の縮少或は作業量に対する過剰人員の排除を目的とするものではなくむしろ常用工を日雇に切換えることにより人件費削減をはかることを第一目的とした整理と考えざるを得ず、果してそうだとすればかかる整理は先ず会社の全体の経営効率に寄与する程度の低い者より排除するのが常識上当然であり配置転換の可能、不可能は全従業員につきかかる意味でのランクを定めた上で経営全体の人員配置の必要上生ずる問題である筈である。しかるにかかる操作を行わず而も前記証人の証言によつて勤務態度出勤率が他に比し優りこそすれ決して劣るものではないことが認められる申立人小林及び出勤率も百パーセントであり伸鉄の熟練工である申立人土井を直ちに配置転換不可能なりとする会社の主張は措信しがたい。なお申立人土井については約一年程前本人が退職を希望していたので整理したと主張するが整理当時申立人土井に退職の意思のなかつたことは明らかであり会社が整理に当つて本人の希望を聴取したか否かの疎明は十分でない以上たとえ以前退職の希望があつたことが事実としても之をもつて直ちに整理該当者と決定することは妥当でない。

以上要するに会社が申立人小林、同土井について解雇理由とするところはいずれも失当であり前記認定の如く申立人小林、同土井はいずれも活溌に組合活動を行つていたということが窺われるので、他に反証なき限り同人らの解雇は企業整備に名を藉り同人らが組合役員或は組合員として正当な組合活動を行つたことを理由として解雇したものと認めるのほかはない。

以上

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